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友川かずき ピストルを聴きながら。


永山則夫wiki

生い立ち

1949年6月27日、北海道網走市呼人番外地に、8人兄弟の7番目の子(四男)として生まれる。博打に明け暮れる父親の放蕩生活によって、家庭は崩壊状態であり、現在で言うところのネグレクトの犠牲者であった。1954年(当時5歳)に、母親が則夫を含む4人兄弟を網走の家に残し、青森県板柳町の実家に逃げ帰ってしまう。残された則夫を含む4人兄弟は屑拾いなど極貧生活に耐えてギリギリの生計を立てたものの、1955年に、4人を見かねた近隣住民による福祉事務所への通報をきっかけに、板柳の母親の元に引き取られた。
1965年3月、板柳から東京に集団就職する。上京後は職を転々とし、どこも長続きしなかった。

連続射殺事件

米軍宿舎から盗んだピストルで、1968年10月から1969年4月にかけて、東京、京都、函館、名古屋で4人を射殺し、いわゆる「連続ピストル射殺事件」(広域重要指定108号事件)を引き起こす。永山は1965年に起こった少年ライフル魔事件の現場至近で働いていたためにこの事件を目撃しており、これに刺激された犯行ではないかという見方もある。
1969年4月(当時19歳10ヶ月)に東京で逮捕された。1979年に東京地方裁判所で死刑判決。1981年に東京高等裁判所無期懲役に一旦は減刑されるが、1990年に最高裁判所で「家庭環境の劣悪さは確かに同情に値するが、彼の兄弟たちは凶悪犯罪を犯していない」として死刑判決が確定する。
この判決では死刑を宣告する基準(永山基準)が示された。

作家として

獄中で、読み書きも困難な状態から独学で執筆活動を開始し、1971年に手記『無知の涙』、『人民をわすれたカナリアたち』を発表した。この印税は4人の被害者遺族へ支払われ、そのことが1981年の高等裁判所判決において情状の一つとして考慮され、無期懲役への減刑につながった(のち差し戻し審で死刑判決、最高裁による上告棄却により90年に死刑確定)。
1983年には小説『木橋』で第19回新日本文学賞を受賞した。1990年には、秋山駿と加賀乙彦の推薦を受けて日本文藝家協会への入会を申し込むが、協会の理事会にて入会委員長の青山光二佐伯彰一など理事の一部が、永山が殺人事件の刑事被告人であるため入会させてはならないと反対した結果、入会が認められず、それに抗議した中上健次筒井康隆柄谷行人井口時男が、日本文藝家協会から脱会するという出来事も起こった。なお理事長の三浦朱門とその妻曽野綾子は入会賛成で、江藤淳は反対の立場からテレビで中上健次と討論を行った。その一方で、1996年、ドイツ・ザール州作家同盟への正式入会を果たしている。
獄中から手記や短歌を自ら発表する死刑囚は多い。しかし、自らの罪を認める一方で、自己の行動を客観的にふりかえるという手法で創作活動を行い、文壇において一定の地位を獲得するまでに至った永山は、死刑囚としては珍しい存在といえる。

処刑後

1997年8月1日、東京拘置所において永山の死刑が執行された。享年48。全国新聞はいずれも当日の夕刊の第一面で報道。
生前、永山は知人に「刑が執行される時には全力で抵抗する」と述べていた。実際に処刑の際、永山が激しく抵抗したとする複数の証言がある[1] 。このため、永山の死体は拘置所内で即座に火葬されたと言われている[2]。
永山の死刑執行については、執行同年6月28日に逮捕された神戸連続児童殺傷事件の犯人が少年(当時14歳11ヶ月)であったことが、少なからず影響したとの見方も根強い。少年法による少年犯罪の加害者保護に対する世論の反発が高まる中、未成年で犯罪を起こし死刑囚となった永山を処刑する事で、その反発を和らげようとしたのではないか、とマスコミは取り上げた[3]。
永山の告別式は東京都文京区の林泉寺で行われ、喪主は東京高等裁判所における差戻審、差戻後上告審で弁護人を担当した遠藤誠弁護士が務めた。永山の遺言により、遺灰は故郷の海であるオホーツク海に、遠藤の手によって散布された。
死後、弁護人たちにより「永山子ども基金」が創設された。これは著作の印税を国内と世界の貧しい子どもたちに寄付してほしいとの、永山の遺言によるもので、貧しさから犯罪を起こすことのないようにとの願いが込められている。

永山則夫は成田/三里塚闘争について、
プチブルだと切って捨てている。

ルンプロが革命の主体であると、
永山にシンパシーを示す平岡正明等も、
利用して商売しやがってと嫌悪感を示している。




マルクス主義」を標榜する世界の左翼党派において、
この9.11同時多発テロを全面的に支持したのは、
ほとんどこの中核派革マル派のみであることは特筆に値する。



●昭和33年 李珍宇事件

 李珍宇は1940年(昭和15年)東京・亀戸に在日朝鮮人として生まれた。日本名は金子鎮宇という。
 貧しい在日部落の中でも李の家は特に貧しかった。父は日雇い人夫だったが給料はすべて飲んでしまうアル中同然の男で、母親は聾唖だった。掘っ立て小屋同然の家に8人もの家族がひしめきあって暮らしている李家は、部落の中でももてあまし者だった。
 日本人からは「朝鮮人」と言って蔑まれるばかりではなく、同じ在日部落の中ですら「貧乏人」と敬遠されて李は育った。
 彼は幼い頃から優秀で、IQは135あった。教科書も買えない生活だったので模写し勉強した。それでもつねに学年トップで、生徒会長までつとめている。ただし、極貧で遠足にも行けない生徒会長だったが。
 読書も好きだったが、本を買う金もなく彼は図書館から本を盗んだ。鬱屈と内向する一方の憎悪から
「余るほどあるところから盗んでなにが悪い」
 と彼は思うようになっていった。ゲーテやプゥシキンはもとから好きだったが、ドストエフスキーの『罪と罰』を読み、ラスコーリニコフの思想に感銘することでそれは一層強まった(のちに彼は「この作品に暗示されたわけじゃない」と言っているが、誰にも聞かれないのに自分から言い出しているところからみて、実は大いに影響されていたとみられる)。
 義務教育卒業後はもちろん進学できなかった。就職活動をするものの、民族差別により大手会社にはどこにも採用されなかった。零細工場に勤めるも、「俺はこんなところでくすぶる人間ではないのに」という怒りから長続きせず、定時制に通いながら職場を転々とするようになった。
 昭和33年、李は23歳の女性を強姦の上殺害。
 同年8月、同じ定時制に通う女子生徒を強姦し、騒がれて絞殺。死体を屋上のスチーム管の中に隠したが、みずから警察や新聞社に
「俺が殺したんだ、死体は穴の中だ」
 と電話し、被害者の櫛や手鏡を送りつけた挙句、挑発的な電話をくりかえした。
 逮捕されたときの李の写真は有名なもので今も残っているが、彼は笑っている。犯行時彼は18歳だったが、少年法適用外とされ、死刑判決を受けた。
 しかし死刑囚監房で彼は死の恐怖におびえ、消灯時間になると毎日「おかあちゃん、こわいよう」と壁を叩いて泣き叫んだ。
 昭和37年に死刑執行。李は半狂乱になって暴れ、麻酔銃を撃たれて、朦朧状態で刑場へ引きずられていった。聾唖の母と、地下足袋姿のままの父が彼の死体を迎えに来た。ふたりは棺の蓋をあけ、歯を食いしばって涙をこらえながら、じっと死に顔を見つめていたという。

http://www8.ocn.ne.jp/~moonston/shouwa.htm

江戸時代では、15歳未満の殺人犯・放火犯は島流しとなり、死刑にはならなかった(「徳川禁令考」後集第4・99。公事方御定書79条。子心にて無弁人を殺し候もの、十五歳まで親類え領置、遠島)

http://profiler.hp.infoseek.co.jp/allen.htm


手塚、石森、永井は、(それとジョージ秋山もか)
少年誌で欲望と憎悪と暴力を描きつつ、
でも、あるいはだからこそ、善くあらねばと、
悲観的?な人間愛を描いていたように思う。

でもなんかいつの間にか、
スタイルになって、
道具になり、
少年誌からその視点はほとんど無くなったような気がする。


力の問題は少年漫画の重要なテーマだと思う。
それが正義は正しく常に勝つみたいな、
幼稚な所に退行するのはどうなんだろう。


覚悟のススメを例外として、
道徳的な事を描くととたんに湿っぽくなる。
すぐに友愛とか、胡散臭いものに逃げるし。
先ず大事なのは正義を疑う事でしょうに。