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ミクシィより、上祐史浩氏とのコミュニケーションに失敗するの記

>2007年06月14日
6:29 530: 火をつけろ!!

 申し訳ありません、ここに質問するのが適当なのかよく分らないのですが、
質問させてください。明確に科学と矛盾する事柄を、多くの宗教団体は主張しております。確かに精神的な事柄に付いては、科学はまだ、何も分っていないようなものかもしれませんが、空中浮揚など、もし可能であるなら、物理も何も書き換えなけれはずならない、奇跡と言う名の、あり得ない事柄に付いて、本当にそれはあるとお思いなのでしょうか。私は聖人の奇跡云々は、教化のための方便か、手品であると思っているのですが。つまり、人生相談に占いと名を付け、神秘的理由や、奇妙な理屈で、説得力を増して、ある種の暗示を与えて、問題の、解決へ向けて後押しさせるような感じの物。
奇跡にせよ、神秘体験にせよ、自己暗示も含めて、暗示のための、そう言った道具ではないのでしょうか?もし、奇跡があるとお考えでしたら、その証明法はあるのか、お教えください。タダ信ずる事が宗教であるのか?

2007年07月28日

→最初の申し上げますが、私は、超能力・霊能力が、宗教や宗教家の価値を示すものだとは考えていません。宗教や宗教家の価値は、分かりやすい言葉で言えば、月並みですが、その人が強い心を持って、自分の弱さと闘い、まっとうな道を進むかどうか、という、その人の生き様にある、と考えています

 その上で、お答えしますと、私は、体験上、現代の科学が依然として説明できない現象が起こることがある、と考えています。ただし、それは、あなたがおっしゃるとおり、現代科学が依然として完全ではないために、説明できないことであり、それが故に、一般の人が奇跡と呼ぶことはあっても、例えば、そのいった現象を普通の人よりも頻繁に起こすことができる人が、過大視されないようにすることが重要だ、と考えています。

 自分が思うに、俗に言う、超能力や霊能力は、人間に備わっているものであり、才能のある人には生まれつきあるし、一定の訓練をすると、それが増大する場合がある、と思います。しかし、それは、人間の自然な力の一環であって、決して、そういった能力があったからといって、直ちに人格が優れいているとか、ましてや絶対者=神の化身である、ということを意味しない、と考えるべきだと思います。

 一方で、余りそういった体験のない人は、そういったものが、全くのでまかせ、インチキである、と考える場合があって、そうすると、実際にそういった者を体験した人との見解の相違・分裂が起こる場合があります。

 例えば、依然として、麻原元教祖に執着している、私がやめたアーレフの信者は、麻原氏のカリスマ性の一つの原因だった超能力をその信仰の根拠とする傾向があります。こういったタイプの人には、超能力の存在を否定すると、彼らの実体験と食い違い、麻原氏への依存から脱却する手伝いをすることに失敗します。

 よって、彼らが実体験した超能力を認めつつも、それが麻原氏が神の化身であるとか、正しいという結論には全くならない、という説得の仕方をすることが必要だと、自分は体験上考えます。

 また、超能力の存在を全く信じない人の中には、全ての人ではありませんが、その中の一部の人には、私の体験からすると、ある意味で、危うい側面があります。というのは、そういった人が、超能力を実体験すると、今度は一転して、超能力やその価値を過度に信じ込んでしまう場合があるからです。

 その意味では、超能力や神秘体験を一つの売り物として、数万人の信者を集めたオウム真理教の発生というのは、80年代から90年代の日本の精神世界(に関心のある人たち)が、まだ未熟で、そういったものに免疫がなかった、と言うことも出来ると思います。

07:042007年07月28日

火をつけろ!!
2007年07月25日
19:41
620: 上祐 史浩
 そうでないと、超能力がある人と超能力が無い人に2分されてしまい、その結果として、超能力がある人とされた人が、特別視される恐れがあったり、逆に、嫉妬や妬みの対象になって、過度に否定される、ことがある、と思うからです。

 なお、超能力というのではなく、人の自然の力である、と解釈するならば、超能力が非絶対的なもの、非普遍的なものである、という特徴も分かるかも知れません。

 例えば、私が知る限りでは、いわゆる超能力者、予言者などとして有名な、エドガーケーシーやジーンディクソン氏も、その予言が全て的中したことはありません。とくに最初は、超能力を示しつつ、だんだん社会的に名が通ってくると、あたらなくなったり、小さいことはあっても、大きな事になるとあたらないとか。

 分かりやすい話をすると、家族の気持ちや状態について、言葉に依らずに、以心伝心で直感的に理解するとか、正夢によって知る、ということがよく言われます。これは、縁の深い人の間では、超能力的な現象が起きやすく、縁の薄い者の同士の間では、起こりにくい、ということを示しています。

 こうして、私が思うには、超能力者という言葉があっても、誰に対しても超能力、奇跡を示すことが出来る、絶対の超能力者というのはいないのではないか、と思うところがあります(これは私の仮説ですが)。あくまでも、超能力は、相対的な者で、相手によったり、場合によったり、条件によって生じたり生じなかったりする傾向がある、と思います。

 当然、麻原元教祖にしても、その信者になった人たちは、麻原との縁の中で、超能力的な現象を体験した結果として、信者になった事例が少なからずありますが、これについて、同じことを逆に言えば、彼に会ったり、彼を見た全ての人が、そういった体験したわけではないからこそ、日本の中で信者になった人は、日本の人口に比べるとわずかだった、ということになります。

 この点からも、麻原元教祖が、彼が日本国民全体に超能力現象を表すことが出来ないのに、武力を使って、日本・世界の王・キリストになろうとしたことは、根本的な矛盾であり、間違いであった、と思います。

 また、大きな宗教でも、イエスとか、マホメット仏陀を信じても、その結果として、いわゆる霊験とか、奇跡と言われる体験をするかどうかは、人によります。よって、人類の歴史の中で、全ての人類の信仰対象となった教祖は未だに存在せず、宗教の間で争いがあります。これを私は、それぞれの人と、それぞれの宗教(の開祖)との縁であろうと理解しています。

 こうして、超能力とは、ある特定の人に独立して存在するものではなく、他の人との関係の中で、条件が満たされて発生する、相対的な性質があり、その意味で、非絶対的なもの(常にどんな条件でも発生するもの)ではない、と考えています。その意味でも、一定の超能力を発揮した人が、絶対の信仰対象となることは矛盾があります(繰り返しますが、これがオウム・麻原の過ちだったと思います)。

 また、おたずねの空中浮揚ですが、これは、インドのヨーガの経典にヨーガ修行の結果として生じうる、と記載されていますが、それ自体は存在すると思います。

 現実に、20世紀のアメリカで成功した近代のインドヨーガ行者(パラマハンサヨーガナンダ氏)の伝記に、その実体験が記載されていますし、日本でも空中浮揚ができるとしているヨーガ行者(成瀬氏など)が存在します。さらには、キリスト教会でも、祈りの中で体が浮揚する、といった体験をすることがある、と冷静なジャーナリストから聞いたことがあります。

 しかし、こういった現象も、いかなる場所でも、どんな人たちの前でも起こる、と言うものではなさそうで、実際に、世界人類の前の前で、世界中を空中浮揚して回った行者や教祖は実在しませんし、イエスの水上歩行も復活させも、それが事実か創造された話しかは別として、十二使徒を初めとする、(人類の人口と対比すれば)相対的には、極めて少数の人の前までの体験として、描かれているだけです。

 成瀬氏も、同じヨーガ行者(自分の弟子)達の近くでないと出来ない、としているそうですが、私も、同じヨーガ行者として、そういった現象に、高いエネルギー状態が必要なために、特殊な条件でないとできないこと、すなわち、万民の前ではできないことは、感覚としてよく分かります。

 こうして、超能力とされているものに対して、それは、人の自然な力であって、人によって、程度の違いがあるとしても、それが、神の証明でも、人格の善し悪しとも関係がない、というくらいに考えて、自然に対応するのが良いと思います。

 また、先ほど言いましたが、その存在を否定しすぎて、無いものだ、と思いこんでばかりだと、実際の体験した(と思わざるを得ない)場合に、逆にどうしたらいいか分からなくなり、場合によっては、はまり込んでしまいますし、また、そうなった知人を救出することができません。これは免疫の不足と言うことだと思います。

 こうして、過大視しもせず、全面否定もせず、成熟した超能力現象に対する姿勢を培うことが、過度にはまり込まないための最善の道だ、と思います。
2007年07月28日
07:08

2007年06月14日
20:59
535: 上祐 史浩
 自分が思うに、宗教をやっていない人も、何か信じて幸福になろうとしている、と思います。

 例えば、現代社会が追究する経済成長ですが、お金が人を幸福にすると信じているだけで、本当にお金が人を幸福にする、という、科学的な証明はなく、科学的に証明されていないことを信じることを信仰だと定義してしまえば、これも信仰だと思います。お金こそが神様だ、という信仰です。

 ホリエモンはお金でできないことはない、と言ったとも聞きますが(間違っているかも知れませんが、そういう考えの人はいますよね)、私から見ると、これは、お金を絶対とした信仰で、松本氏に帰依すれば幸福になる、という考えと本質的に違いがないと思います。

 そして、お金、経済的な利益の追求は、植民地侵略から、中東の石油覇権の確保まで、古今東西で、戦争をもたらしてきたし、異なる宗教勢力の間で戦争が起こる場合も、その背景には、経済的な利益、ないし現実の利害関係がある場合が多い、と思います。

 だから、お金が幸福をもたらす、と信じる信仰を含めて、さまざまな信仰による幸福と、その信仰による戦争を含んだ災厄の双方があると考えることはできないでしょうか。



2007年06月16日
14:03
571: 火をつけろ!!
何かはぐらかされた気がしますので、
再質問します。

経済ゲームは、
別に科学と矛盾しません。

現在ほぼ間違いないと、
検証されている、
科学理論を、
否定することについて、
どうおもわれますか?

以下例えとして、

天動説を唱える事は自由ですが、
間違いだとはおもわないでしょうか?
2007年07月28日
07:09

火をつけろ!!

→申し訳ありませんが、質問の主旨がよく理解できません。現在ほぼ間違いないと検証されている科学理論を否定する、ということは、具体的に、何を否定することでしょうか?文字通りですと、私がキリスト教会が中世に主張した、天動説を肯定している、といったように解釈できますが、そういうことでしょうか?

 なお、私は、経済ゲームが科学と矛盾しているかどうかは別にして、消費主義、物質主義、経済中心主義的な傾向が、人の心身やその環境のために、最善である、という点については、科学的な立場からも、懐疑的ですし、そういった人は、今現在、少なくない、と思います。近代科学思想について、その良さと同時に、それを盲信すれば危険である、近視眼的な側面を感じています。もちろん、これは、今後の人類の歴史が審判を下す者であって、それに委ねつつ、自分なりの道を行く所存です。