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強姦 早見純  試論

速度の愛



シュルレアリスト辞典には、
強姦=速度の愛とあるらしい。
言葉遊びに、文句を付けるのもアレだけど。
愛ではなく欲望と、捉えたい。

強姦に愛などない。

一般にフィクションで強姦シーンがでる場合、
ただインパクトだけで、
描かれているように思う。
ストーリー的必然性は、
ある程度、技術のある作者なら、
どうとでもなるし、強姦シーンを抜くと成立しない作品は、
ほとんど無いような気がする。
特にエロ系の作品はそう。
テーマが強姦でない限りは。

早見純は、
作中繰り返し、強姦シーンを描く。
基本的に主人公が除き見る他人の性行為や、
主人公の一部の妄想以外、
性行為は、総て強姦である。

強姦シーンは、
しばしば、被害者の視点から描かれる。
これは、サディズムに基づく物ではない。
行為は常に醜悪な行いとして描かれ、
強姦者も醜悪に描かれる。

早見純は強姦に付いて深く考えている。
衝動について深く考えている。

男根主義者は、強姦を肯定する。
それが男なのだと、断言する。

しかし、早見純はどうなのか、
強姦は男の属性として、
普遍的な物だと、捉えている気がする。
しかし彼は肯定はしていない。

男たちの醜悪さにそれが現れているように思う。

強姦は、しばしば殺害にまでエスカレートする、
破壊行為として描かれている。

それは早見純の中からでてきた物である。
彼はそれを直視している。
自らの醜悪さを漫画の中に塗り込めている。


ラブレターフロム彼方は、
そこら辺を分りやすく描いているように思える。

この作品の主人公は、
人間ではなく、
声である。
声は指令を出す。
強姦しろ!
殺せ!
声は、精子や性器として視覚化される。
声は男そのものとして描かれる。

あいつもあいつもあいつも、
総ての強姦者は俺であり、
ずっと昔からそれは続いてきた。

ネタバレになるが、



声は最後にささやく。

お前はすでに俺なんだと。

早見純は自覚している。
死に往く少女の憎しみと哀しみを、
十分に、想像でき、
それを作品として発表しても、
尚かつ凶暴な物が内に潜む事を。

ラブレターフロム彼方

ラブレターフロム彼方