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蘇る死者、魂無き骸の怪異


現代劇で怪異を描きます際に、
情報網の発達利便性は、
そこに注目して話を組み立てるのでなければ、
むしろ足枷となります所で、
うっかりすると真実味の追求が、
作品の嘘を拡大しパロディにしてしまう恐れがあります。

これは電気時代になって、
怪奇のありようが変容せざるを得なかった部分を、
連想させます。

電球も燭台で、テレビも鏡、
電話は手紙もしくはどこからともなく聞こえる声、
等と消化され乗り越えて、
古典怪談は保存された部分もございますが、
ロメロは、そこをさらに踏み込み、
モダンゾンビを生み出し、
文明の中の怪異を描き切りました。

情報は混乱し、
碌な理由の説明等も無しに、
恐るべき事態が進行し、
もはや希望はないかもしれない。

それは戦争の影響なのでしょうが、
ドライな写実で怪奇映画をつくる、
いわばハードボイルドの手法でありました。


ここまで書いてきた事否定するような気もするが、
戦前の独逸は、
映画と言う文明の器機に、
現代劇として怪奇を封じ込める、
作業を成し遂げたのではないだろうか。

リング等は、
むしろ劇映画成立時へ回帰して、
動く映像自体が何か不気味に思える、
より原始的な作品に思える。




怪奇大全科―決定版 (大全科シリーズ)